3児のママが見たヨーロッパ

バルセロナ・ロンドン・パリで暮らしてきた3児の母からの欧州の風便り。長年の主婦生活で抱えていたいらいら&もやもやをコーチングがきっかけで払拭。あなたはあなたのままでいい。みんなちがってみんないい。一緒に「よい母親」より「幸せな母親」になりましょう。

バルセロナのテロのニュースで考えたこと

2年半子育てをさせてもらったバルセロナでテロが起きた。

よく知っている場所だから、

地元のお友達も多いから、余計に映像が悲しい。 

ついにバルセロナまでいってしまったか。。

 

パリでもロンドンでもテロがあった。

テロのニュースを見る度、ショックと悲しさに襲われる。

同時に、そのあとに人々が見せる連帯にも心打たれてきた。

 

 

ただ、実際に現地で明日からも生活していくとき、

ひとりの母としては、少なからず恐怖心と闘うことになる。

 

思い出すのが、一昨年のパリでの大きなテロのあと。

道すがら出会う人たちが、

なんとなく互いに警戒しているのを感じたものだ。

 

フランス人はテロでも屈せず、

カフェのテラスに座ってる、なんて報道されていたが、

あれだけのことがあってインパクトを受けない人はいない。

 

当時は、レストンラン、カフェ利用も減っているようだったし、

行きたかったサッカーの試合に行くのをやめた、とか

娘の夜の外出を控えさせた、とか

できるだけメトロに乗らないようにしている、とかいう声を聞いた。

 

我が家のマンションの入り口には

ロックのかかった大きなゲートがあるが、

そこでの光景も違っていた。

 

いつもは、自分の背後に一緒に入ろうとする人がいた場合に、

互いに挨拶して入れちゃったりするのだが、

当時は、

 

「これは私の鍵で開けたのよ。

 あなたは一緒に入って来ないで!」

 

とはっきり威嚇しているマダムを見たのも一度ではない。

みんな警戒モード。

 

かくいう私も白状すれば、

ヒジャブをかぶってカートを持つ女性が

バス内でうつむいて座ってたりすると、

胴体におそろしいものを巻いていないか、、なんて、

目でさぐってしまって。

弱い心が生む疑心暗鬼。

 

安全を守るため、

あちこちに銃を構えた兵士が集団で歩いている。

それが普通になってしまった日常。

 

スーパーやショッピングセンターの入り口では

カバンを開けるだけではなく、

女性もコートの中を見せねばならなかった。

 

店内は、クリスマス前の華やかなデコレーション。

それなりの人込み。

でも、その光景の中にあって、

 

「もし、爆発があったらどこに逃げようか」

「家族が離れないようにくっついていよう」

 

などとつい考えてしまう。

 

だめだ。悪いことは考えないことだ。

子どもに悟られてはいけない。

むやみに怖がらせるものではない。

笑顔、笑顔。

 

夫は全く動じていなかったので、

これは危険察知に長けた?女性脳特有の心配だったのかも知れない。

 

「何かが起こった時に、一緒にいる子ども3人を

 どうやって守るか。守れるのか?」

 

それを考えながらの外出。

一言でいうと疲れる。

ストレスである。

 

何より人間の根底にある善良性を信じて生きてきた人間にとって

人を疑うということ自体が苦しく、気持ちが塞ぐことだった。

 

だから、できるだけ路上でも笑顔を心がけた。

前から歩いてくる人と目と目があって、

温かく微笑みあうと大丈夫だと守られている気持ちになった。

人は人に癒される。

 

 

こういった緊張感を味わうと、

自分の外の世界のことを本気で考える。

 

先進国にあって、

この事態だけでもストレスだというのに、

いま、戦争、内乱、圧政に苦しんでいる国の女性と子どもたちは

どんな辛い状況下で生きているのだろう。

 

同じ時代に、

温かなベッドで、爆撃の心配なく、子どもの寝息を聞くことができる私と、

考えられない恐怖の中で、我が子をひしと抱いている母たち。

 

そして、想像は広がる。

同じ日本でも、時計を少し前に戻せば、

防空壕で我が子の泣き声を

つらい手段で黙らせねばならなかった母だっていたのだ。

 

タイムスリップ。

涙が出てきて、ふと我に帰る。

 

 

こんなこと考えても仕方がないだろうか。

私はそうは思わない。

 

戦争もテロも自然災害ではなく、

人間のすることだ。

人間は歴史に、記憶に、学ぶことができる。

 

そして何より、世界は完全に繋がっている。

いつかの誰かがしたことが、どこかの誰かに跳ね返ることがある。

弱い立場の人たちが巻き込まれる。

 

だから、テロってこわいね、嫌だね、で終わらずに、

バルセロナに住む友人の言葉を借りて

「世界への想像力を持つこと」をやめないでいたい。

 

想像し、実感して、

じぶんも世界の構成員であることを意識したい。

 

 

そして、

テロに対して、ひとりの母親としてできること。

 

それはすごく簡単に言うと、

<楽しく育児>していくことなんじゃないだろうか。

 

げらげらと笑い合うこと。

ぎゅうっと抱きしめ、あったかさを感じあうこと。

子どもの個性をそのまんま受けとめること。

 

子育てを通して、

そうやって人間どうしの愛情を交換していくこと。

 

夫婦喧嘩しても、折り合う姿を見せ、

暴力ではなく、コミュニケーションによって、

調和のある世界が築けることを子どもたちに見せること。

 

たとえ誰かと離別するようなことがあっても、

ネガティヴな感情に執着せず、

新たな人生をたくましく生きる姿を見せること。

 

悲しさの先の希望を語ること。

人間の良心を信じること。

世界が楽しいところだと感じさせること。

 

ぜんぶぜんぶ子どもの心に希望の種を与えるものだ。

 

そう考えると、

私たち母親は社会から遠い存在ではない。

出発点とさえいえる。

 

未来のよりよい世界を担う「こども」という人材を

それぞれの家庭で育てているのだ。

子育ても、立派な<社会貢献>である。

 

 

また、外に出て、色々な国の色々な人を見ていると、

日本人の「平和」と「調和」を愛する心は、

(日本では、そのこと自体、忘れてしまうほど普通であっても)

世界にとっては貴重なのだとつくづく感じている。

 

となると、、、

 

ニッポンのお母さんってある意味、

よりよい未来をつくる使者を育ててる!?

 

 

話が飛躍してしまいました、、

 

 

よりよい社会をつくるには、

まずは、じぶんから。

 

自分でじぶんを受け入れよう。

<今を生きるよろこび>を素直に感じ、恐れず謳歌しよう。

多様なものを受け入れよう。

 

家庭に笑顔を。

自分の身近な人との関係性に平和を。

 

それが私なりの、世界で起こる争いへの抵抗です。

 

 

今、友人から聞くバルセロナの人々の

連帯と愛ある行動に、感動しています。

 

亡くなった方々のご冥福と

被害を受けた方々の回復を祈ります。