3児のママが見たヨーロッパ

バルセロナ・ロンドン・パリで暮らしてきた3児の母からの欧州の風便り。長年の主婦生活で抱えていたいらいら&もやもやをコーチングがきっかけで払拭。あなたはあなたのままでいい。みんなちがってみんないい。一緒に「よい母親」より「幸せな母親」になりましょう。

7年前と7年後の3.11に思ったこと

2011年の3月11日の14時46分は、

3歳の長女がインフルエンザで幼稚園を休んで何日目かで、

私の大きなお腹には長男が入っていて、

私はリビングで娘を休ませつつテレビを見ていた。

 

揺れ始めたなと思ったら、なかなか収まらず、

ちょっと驚くような大きい揺れがきて、

ついに東京直下型が!?と国会中継だったNHKにすると、

 

 

宮城県??

 

 

 

それでこんなに大きいの??

 

 

外へ出るドアがゆがんで出られなくなるといけないと、

娘を連れて、玄関のドアを開けに行ったのだけど、

大きな揺れで廊下をまっすぐ歩けない。

右に左に体をぶつけるようにして歩いて。

娘は「ママーーーおうちがこわれちゃうーーー」と泣き出した。

 

停電し、テレビは消えた。

 

もしかしたら避難することになるかもしれないと、

玄関ドアを開けたままにして。

寒さをしのぐために娘にも自分にもダウンを着せて。

靴も履いて玄関に待機した。

夫に携帯がうまくつながらない。

 

いったいどうなるんだろう。。

そこから始まったあの日。

 

 

停電しているのでブレーカーを落として過ごしていたら、

外が暗くなってきて

向かいのマンションの明かりがついていることに気づいた。

 

ブレーカーをあげて、

テレビをつけると、

こんな言葉が耳に入ってきた。

 

 

「今入ってきた情報によると、

 〇〇海岸に200近い遺体が確認できるということです」

 

 

 

  ・・・・・・・・

 

 

 

 へ?

 なんやて?

 これはなに?

 神隠し?

 この時代にこんなことが??

 

 

信じられない。

現実とは思えない。

 

 

心の底から震えるような感覚におそわれる。

思わず両手を合わせてテレビ画面を拝んだ。

テレビを見ながら合わせた手が離せない。

 

 

なんということ。

なんという恐ろしい光景。

口をあんぐり開けて画面を見つづける。

 

 

想像を絶する事態。 

断片的な情報で全体を理解しきれない。

 

 

ただ、人生で経験したことのないとんでもないことが

この日本に起こったことだけは分かった。

 

 

その後分かった原発事故のこと。

色々な情報が交錯して、

この水道水が危ないのか?と疑った日。

この空気が危ないのか?と不安になった日。

 

(人間が生きていく上で欠かせないもの、避けようのないものの

安全を疑わなければならない恐ろしさといったら・・)

 

 

 

そして、

テレビには毎日毎日、大切な人を探す人の姿が。

ある日、あるお父さんがインタビューを受けているのが目に留まる。

その人は長女と同じ年頃の小さな女の子を抱いていた。

 

「妻が、、、妻は妊娠していて、、

 七カ月でお腹が大きいもんで、、

 津波がきたところにいて、、、、

 多分走れなかった、、、、、、、、と。

 でも、、この子が待ってるんで、、、 」

 

うつむき嗚咽を殺す

そのご主人の悲痛な叫びを聞いたとき、

私は突如、大きな渦の中に自分が入った気がした。

 

小さな女の子。夫。妊娠七か月の妊婦さん。

私と同じじゃないか!

流されたその人は私だったかも知れないんだ!

 

これは画面の中で起こったことじゃなく、

同じ日本で、

同じように生きている人に起こった

本当のことなんだ。

 

なんてことだろう。ああなんてことだろう。

涙が止まらなかった。

 

 

通りで友人知人に会うと震災の話になり、

一緒に涙することもあった。

 

乾電池やトイレットペーパーを買いためる人たち。
現地へ物資を送る企業や個人の動き。


そうか。

お医者さんや自衛隊だけじゃない。

おむつでも歯ブラシでも段ボールでもレトルト食品でも

それぞれ快適に生きる上でありがたいもの。

お風呂だって、タオルだって、ビニール袋だって

道だって橋だってぜんぶぜんぶ。

 

みんなそれぞれに<役割>があって、

その役割をみんなが果たすから社会が回っていたんだ。

 

企業から個人事業主、主婦にいたるまで

それぞれがなんて誇るべき仕事なんだろう。

ずっと誰かが誰かを支えていたんだ。

 

当たり前のことを初めて理解した気持ちになった。

 

 

計画停電が何度も行われ、

ろうそくの夕食と、懐中電灯での絵本読みも複数回経験したが、

そんなことは現地の人たちのことを考えたらなんでもないことだった。

 

 

泥の中のお子さんを早く見つけたい一心で

重機の免許を取ったお母さんもいた。

自らショベルで掘って我が子を探す母の慟哭と痛いほどの気持ち・・・

言葉がなかった。

 

 

震災の映像やニュースは妊婦の体にさわるといけないし、

見なくていいという人もいた。

でも、私は「見るべきだ」と思った。

同じ時代に生きた者として

見て、感じて、それを後世に伝えなくてはいけないと思った。

 

 

同年の7月のある日。

私は、長男が生まれてくる陣痛中。

テレビのインタビューで知った津波に流れたかもしれない

名前も知らない妊婦さんのことを考えていた。

 

繰り返される痛みの波にのまれながら、

その人が産めなかった命をちゃんと産もう。

そう考えていた。

 

 

 

また時が流れて、2018年3月11日。

こちら時間の午前6時46分。

東の空へ合掌。

 

そして私は、夫と子ども3人と

久しぶりに晴れたパリの公園にいた。

滅入るほど天気の悪い冬のヨーロッパ。

天気が少しよいだけで気分がいい。

 

夫はせっせとハンバーグをつくり、

買ってあったチーズとバンズをバスケットに放り込んだ。

お茶も水筒に二本分いれてある。

私はオレンジとイチゴを切ってタッパーに入れた。

 

着いたらいつもの芝生は養生のためか入れないようになっていた。

でも別の場所に移動して、なんとかレジャーシートを敷いた。

 

あ!箸忘れた!

 

夫が指先で自作のハンバーグをつかみ、パンにはさむ。

待ちきれない男子。

米派の長女はおにぎりもあることをしっかりチェック。

私は日差しがあたたかくうれしくてコートを脱いで、

靴下も脱いで、Tシャツ姿で日を浴びた。

 

散歩中の老夫婦にボナペティ~と声をかけられる。

 

メルシー!

おいしいね~

気持ちいいね~

 

食後はスケートやら滑り台やらでみんないなくなった。

私は母親業をお休みし、読みたかった本を広げる。

3月11日の空はきれいで。

 

 

幸せだなあ。

うん。

 

 

同時代に生きていた2万人の人々が去って、

私に何ができるのか。

 

 

今を生きる歓び。

 

それを味わって生きよう。

自分の心の手綱を自分の手にもって、

幸せを感じられる自分でいよう。

この世界の中の私の役割を果たそう。

  

 

古い記憶で曖昧なところもあるメモですが、

お空の皆さんのことを忘れないように

ここへ記しておきたいと思います。

 

合掌。