3児のママが見たヨーロッパ

バルセロナ・ロンドン・パリで暮らしてきた3児の母からの欧州の風便り。長年の主婦生活で抱えていたいらいら&もやもやをコーチングがきっかけで払拭。あなたはあなたのままでいい。みんなちがってみんないい。一緒に「よい母親」より「幸せな母親」になりましょう。

パリジェンヌマラソンに参加してみたら1

先日、知人に誘われて、

パリジェンヌマラソンというものに参加しました。

 

距離は6.7キロと短い(!)ですが、

小さい頃から体育の授業と、運動会が苦手という

運動音痴の私としては出ると決めるのには勇気がいりました。

 

大学以来ろくに運動していないし、

3人産んで欧州暮らしで骨密度も低すぎるし(関係ないか笑)、

なにしろ、みっともない姿を見せるのも何かなーと。。

 

でも、これ以上ない絶好のチャンスと思ったんです。

 

今年に入り、コーチングを受けてからちょっとした気づきがあり、

だらだら走りですが、週一回母娘ジョギングしていたこと、 

 

たまたま母娘ジョギング中に出会った知人が

私がジョギングしていることを知って今回誘ってくれたこと、

(私はパリのイベント情報に疎いので自分では申し込むことがない・・)

 

初心者にぴったりの距離の短さと、

仮装などでも楽しむ女性だけの大会だってこと。 

 

 

うん。今でしょ!

 

 

ゴールが決まると、体が動く。

2週間切ってこりゃまずいな、、と

末っ子が託児所行っている間にも一人で走って。

 

走ってると、自分の「へへ、ほほ、へへ、ほほ」という

一定のリズムの呼吸だけが聞こえる。

左手前方には、セーヌ川にたたずむ自由の女神。

 

そのとき、

 

「わたし、いま、ここ、じゆう」

 

そんな言葉が浮かんで、

「運動音痴」とか「かっこわるいかも」なんてことは

どうでもいいことに思えました。

 

今生きてるって感じる幸せ!

常に赤ちゃんを抱いて身動きが取れなかった育児時代から、

人さまへ預かっていただいて、

自分の自由になる時間を確保できる新時代へ。 

育児のフェーズが変わったことも実感。

 

そして、向かいからやってくる文字通り多種多様で

自然体のパリジェンヌたちを見ながら、

最近読んで感銘を受けた

オードリーヘップバーンの短い言葉を思い出す。

 

「どのしわも私が手に入れたもの」

 

そうだ!

シミもしわも白髪もセルライトも妊娠線もぜーんぶ私。

私の歴史。

そのぜーんぶをひっさげて、堂々と私まるだしで走ろう!

って思ったら心から楽しく気持ちいい!!

 

さらには、

 

「わたしは運動しない」

「わたしは根気がない」

「小さいこどもいるし」

 

自分でつくっている勝手な思考の枠ってあったんだなーって。

そういったものよ、さようならー。

 

感覚を開いて、シンプルに今を楽しむ。

 

パリジェンヌマラソンに出るべく、

ジョギングしながらそんなことを思ったのでした。

バルセロナのテロのニュースで考えたこと

2年半子育てをさせてもらったバルセロナでテロが起きた。

よく知っている場所だから、

地元のお友達も多いから、余計に映像が悲しい。 

ついにバルセロナまでいってしまったか。。

 

パリでもロンドンでもテロがあった。

テロのニュースを見る度、ショックと悲しさに襲われる。

同時に、そのあとに人々が見せる連帯にも心打たれてきた。

 

 

ただ、実際に現地で明日からも生活していくとき、

ひとりの母としては、少なからず恐怖心と闘うことになる。

 

思い出すのが、一昨年のパリでの大きなテロのあと。

道すがら出会う人たちが、

なんとなく互いに警戒しているのを感じたものだ。

 

フランス人はテロでも屈せず、

カフェのテラスに座ってる、なんて報道されていたが、

あれだけのことがあってインパクトを受けない人はいない。

 

当時は、レストンラン、カフェ利用も減っているようだったし、

行きたかったサッカーの試合に行くのをやめた、とか

娘の夜の外出を控えさせた、とか

できるだけメトロに乗らないようにしている、とかいう声を聞いた。

 

我が家のマンションの入り口には

ロックのかかった大きなゲートがあるが、

そこでの光景も違っていた。

 

いつもは、自分の背後に一緒に入ろうとする人がいた場合に、

互いに挨拶して入れちゃったりするのだが、

当時は、

 

「これは私の鍵で開けたのよ。

 あなたは一緒に入って来ないで!」

 

とはっきり威嚇しているマダムを見たのも一度ではない。

みんな警戒モード。

 

かくいう私も白状すれば、

ヒジャブをかぶってカートを持つ女性が

バス内でうつむいて座ってたりすると、

胴体におそろしいものを巻いていないか、、なんて、

目でさぐってしまって。

弱い心が生む疑心暗鬼。

 

安全を守るため、

あちこちに銃を構えた兵士が集団で歩いている。

それが普通になってしまった日常。

 

スーパーやショッピングセンターの入り口では

カバンを開けるだけではなく、

女性もコートの中を見せねばならなかった。

 

店内は、クリスマス前の華やかなデコレーション。

それなりの人込み。

でも、その光景の中にあって、

 

「もし、爆発があったらどこに逃げようか」

「家族が離れないようにくっついていよう」

 

などとつい考えてしまう。

 

だめだ。悪いことは考えないことだ。

子どもに悟られてはいけない。

むやみに怖がらせるものではない。

笑顔、笑顔。

 

夫は全く動じていなかったので、

これは危険察知に長けた?女性脳特有の心配だったのかも知れない。

 

「何かが起こった時に、一緒にいる子ども3人を

 どうやって守るか。守れるのか?」

 

それを考えながらの外出。

一言でいうと疲れる。

ストレスである。

 

何より人間の根底にある善良性を信じて生きてきた人間にとって

人を疑うということ自体が苦しく、気持ちが塞ぐことだった。

 

だから、できるだけ路上でも笑顔を心がけた。

前から歩いてくる人と目と目があって、

温かく微笑みあうと大丈夫だと守られている気持ちになった。

人は人に癒される。

 

 

こういった緊張感を味わうと、

自分の外の世界のことを本気で考える。

 

先進国にあって、

この事態だけでもストレスだというのに、

いま、戦争、内乱、圧政に苦しんでいる国の女性と子どもたちは

どんな辛い状況下で生きているのだろう。

 

同じ時代に、

温かなベッドで、爆撃の心配なく、子どもの寝息を聞くことができる私と、

考えられない恐怖の中で、我が子をひしと抱いている母たち。

 

そして、想像は広がる。

同じ日本でも、時計を少し前に戻せば、

防空壕で我が子の泣き声を

つらい手段で黙らせねばならなかった母だっていたのだ。

 

タイムスリップ。

涙が出てきて、ふと我に帰る。

 

 

こんなこと考えても仕方がないだろうか。

私はそうは思わない。

 

戦争もテロも自然災害ではなく、

人間のすることだ。

人間は歴史に、記憶に、学ぶことができる。

 

そして何より、世界は完全に繋がっている。

いつかの誰かがしたことが、どこかの誰かに跳ね返ることがある。

弱い立場の人たちが巻き込まれる。

 

だから、テロってこわいね、嫌だね、で終わらずに、

バルセロナに住む友人の言葉を借りて

「世界への想像力を持つこと」をやめないでいたい。

 

想像し、実感して、

じぶんも世界の構成員であることを意識したい。

 

 

そして、

テロに対して、ひとりの母親としてできること。

 

それはすごく簡単に言うと、

<楽しく育児>していくことなんじゃないだろうか。

 

げらげらと笑い合うこと。

ぎゅうっと抱きしめ、あったかさを感じあうこと。

子どもの個性をそのまんま受けとめること。

 

子育てを通して、

そうやって人間どうしの愛情を交換していくこと。

 

夫婦喧嘩しても、折り合う姿を見せ、

暴力ではなく、コミュニケーションによって、

調和のある世界が築けることを子どもたちに見せること。

 

たとえ誰かと離別するようなことがあっても、

ネガティヴな感情に執着せず、

新たな人生をたくましく生きる姿を見せること。

 

悲しさの先の希望を語ること。

人間の良心を信じること。

世界が楽しいところだと感じさせること。

 

ぜんぶぜんぶ子どもの心に希望の種を与えるものだ。

 

そう考えると、

私たち母親は社会から遠い存在ではない。

出発点とさえいえる。

 

未来のよりよい世界を担う「こども」という人材を

それぞれの家庭で育てているのだ。

子育ても、立派な<社会貢献>である。

 

 

また、外に出て、色々な国の色々な人を見ていると、

日本人の「平和」と「調和」を愛する心は、

(日本では、そのこと自体、忘れてしまうほど普通であっても)

世界にとっては貴重なのだとつくづく感じている。

 

となると、、、

 

ニッポンのお母さんってある意味、

よりよい未来をつくる使者を育ててる!?

 

 

話が飛躍してしまいました、、

 

 

よりよい社会をつくるには、

まずは、じぶんから。

 

自分でじぶんを受け入れよう。

<今を生きるよろこび>を素直に感じ、恐れず謳歌しよう。

多様なものを受け入れよう。

 

家庭に笑顔を。

自分の身近な人との関係性に平和を。

 

それが私なりの、世界で起こる争いへの抵抗です。

 

 

今、友人から聞くバルセロナの人々の

連帯と愛ある行動に、感動しています。

 

亡くなった方々のご冥福と

被害を受けた方々の回復を祈ります。

2歳児に教えてもらったリフレインすることの威力

私は母に「口から生まれてきた」と評されるほど、

よくしゃべる。

 

働いていたときは、

しゃべる仕事だったからそれが功を奏したかもしれないが、

育児においては、それが災いして、

子どもの話にもうっかり口をはさみがちだ。

 

 「え?それってだれが?」

 「はいはい、そのことね」

 「えーそれくらいがんばんなさいよ」

 

心の声が身内にはどんどん出る。

 

意識すればキャッチボールできるのに、

日常生活では、

子どもの声を受け止める余裕より、

私忙しいのよ、

何が言いたいのか結果を聞かせてくれ、

という感じ全開・・・

 

 

たとえば子どもが転んで泣いてしまったような時、

みなさんはどう声をかけますか?

 

私はかつて、 

 「大丈夫、大丈夫!」とか

 「いたいのいたいの飛んでいけー!」とか

 

抱っこしつつも、

いかに早急にポジティブにもっていくか?という発想で、

言葉が出ていたと思う。

 

 「あ!あれは何だろう?」

 

みたいな場面転換の言葉 とか 笑

(↑ 結構使えるけど)

 

でも、ポジティブな言葉を発しても、

場面転換の言葉を発しても、

こどもは「いたいよー」とか「ちがーうー」とか

案外、泣いていたような気もするのです。

 

で、最近、

相手の気持ちがすっと収まる、

もっといい方法があると気付きました。

 

教えてくれたのは、我が家の3番目。末っ子。2歳児。

彼は非常にコミュニケーション上手。

 

たとえば、私が何かにつまづいてイタッ!と言う。

 

すると、末っ子は、

 

「おかーさん、いたいの?」と聞く。

 

「うん」と答えると、

 

彼はしみじみとこう言う。

 

「そ~かあ~いたいかあ~」

 

これが言われてみると分かるのだが、

なーんとも心地いい!

 

その気持ちをあえて言葉にすると、

「そうなんだよ~気持ちに寄り添ってくれてありがとう!」という感じ。

 

転んで泣いた子どもも、

こうやって「そっか~いたかったか~」 って

ただ受け止めてもらいたかったのかもなあ・・

なんて思うわけです。 

 

 

また、ある時には、

キッチンの食洗器に食器をしまい終わると、

とことことやってきて、

 

「おかーさん、おわった?」と聞く。

 

「終わったよ」と答えると、

 

「そ~かあ~おわったかあ~」と。

 

小刻みにうなずきながらにこにこしている息子。

 

 

息子の言葉に、

「うんそうだよ、おわったよ」とまた心で答えて、

それがなんとも癒される。

 

なぜこんなに癒されるのだろう。

それは、末っ子の言葉に否定も肯定も

<ジャッジがない> からじゃないだろうか。

 

自分の言葉をそのままリフレインされることによって、

じぶんの在りようをすぽーんと

<そのまんま 受けとめてもらった>気持ちになるのです。

 

 

そういえば6年ほど前に

幼稚園で申し込んだ母親セミナーがあって、

コミュニケーションにおいて「オウム返し」が

いかに有効かという話を聞いていたのだった・・・汗。

 

その講師の方がおっしゃっていた例が、

面白いのでご紹介。

運動会の練習で疲れて帰宅した小学生の息子との会話。

 

  子:「おかーさーん、つかれたあーー」(玄関にて)

 

に対して

たいていの母親が何というか。

 

 

 

 

 母:「いいから手を洗いなさい」(リビングから)

 

 

 

 

母たち爆笑!

うん、あるある!!

でも、よく会話を見てみると、全然かみ合ってない!(笑)

 

こうしたらどうだろう。

 

 子:「おかあさん、つかれたー」

 

 

 母:「そうかあ、つかれたかー」 

 

「手洗ってね」はそのあとでいいのだと。 

子どもの目線で会話を見てみると、

後者の会話は気持ちがスーッとしませんか?

 

 

 

で、、、おそるべし我が末っ子。

 

 「そ~か~いたいか~」

 「そ~か~おわったか~」

 「そ~か~おもしろいか~」

 

自然体で、母に、

6年前の話を実感として思い出させてくれたわけです。

 

リフレインは、

言葉の発達段階にあるものの常なのかも知れないけれど、

実際に言われてみるとその威力がよく分かります。

とにかく ものすごい「包容力」デス!!

  

だから私も、こどもたちが何かを訴えてきたとき、

 

 「それはこうだからでしょ」とか

 「こうすればいいじゃない」とか

 「いいからこれしなさい」とかって

 

会話を打ち返す前に、

意識的にワンクッション入れるようにしている。

 

 「そうかあ。そうだったかあ~」 

 「そうかあ。そうだねえ~」

 

これで子どもがムスッとしたことは一度もない。

コミュニケーションがスムーズにいくコツです。

 

ぜひみなさんもお子さんの言葉、

そのまんまリフレインしてみてくださいね。

(できるときだけで大丈夫!) 

 

自分の気持ちをそのまーんま受けとめられた子が、

う、うん!って

落ち着く姿を見れると思います。

息子とのデートで分かった「母が自分のためだけにそこにいる」ということの威力

こどもが複数いると、

上の子にこそ手をかけるべきだとか、

たまには上の子どもだけとの時間も大切だ、とか

そういうことを聞く。

 

そうだよなあ、そうできたらいいよなあ、と思うのだが、

実際、日々のこどもとの生活では、

 

「いかにこども全員の生活のリズムを崩さずに、

色々なルーティンを終えられるか」

 

という価値観が第一となりがちだ。

 

だって、規則正しく生活することが

子どもの明日のご機嫌や健康状態に影響することを

母親は経験的に知っているから。

 

寝不足だとぐずる、

免疫が下がって病気をもらう、

翌日の夕方あたりには機嫌が最悪、

予定をこなすことができない、

 

それを避けるための、

明日の自分を楽にするための、今日の生活、という感じ。

 

そうなると、あれしなさい、これしない、のオンパレード。

子どもとしゃべっているようで、

頭の中では別のことを考えていたりなんてことも日常茶飯事。

 

思い返すと3人のこどもとの生活を回すことに必死で、

雑念のないフラットな心で、子どもの言葉に耳を傾けたり、

子どもの姿を見てやることが、少なかった気もする。

 

<いま、ここ>

 

に自分という存在が集中していないという状況。

 

 

<やらなきゃならないこと>

<やらせなきゃならないこと>

 

(と思われることに)意識が向かってしまう。

  

そして一日の終わりかけ、

こどもたちの仕上げ磨きが終わったときの達成感、

ベッドで寝入った時の安堵感&解放感、

そして自分も寝落ち・・・

 

朝が来て、またひー!と一日が始まる。

 

 

先日、思いがけず、6歳の長男と2人きりになる日があった。

長男・長女とも通っているインターが夏休みに入っていたが、

その日は、姉だけ日本人学校に体験入学に行っており、

そして末っ子は託児所へ。

 

あれ?今日は真ん中だけ??

 

そんな思いがけない時間。

真ん中っ子である長男と2人きりとはいつぶりだろうか。

少なくとも、末っ子が生まれてから初めてかもしれなかった。

 

朝。

末っ子を一緒に託児所まで見送り、託児所の扉を出たとたん、

息子は私の手を取って、スキップしだした。

私も末っ子と歩く時とは違った身軽さ。

 

「デートみたいだねー♪」

 

そういって、茶化すと、

まんざらでもなさそうにニマニマしている。

いやそれを通り越してウキウキしまくっている(笑)!!

ウキウキしすぎてぴょんぴょん跳ねているし、

こんなにしゃべる子だっけ?というくらいずっとしゃべっている。

 

「ちょっと涼しいね」

 

というと、

 

「僕の上着いいよ」と脱ごうとする。

 

「いやいや」と断ると

 

「いいよいいよー」とひつこい。

 

「うわ!ここ(道)は鳩のフンすごいよ」と言うと

 

「とうっ!!俺がお母さんを守る!(フンから・・)」とか。

 

とにかく浮足立っている。

 

 

生まれてから、365日、年がら年中一緒にいるのに、

2人きりってそんなにうれしいんだあ。

 

 

近くの商店街のパン屋さんでサンドイッチを選び、

息子だけに特別にチョコムースのデザートも買って、

公園のベンチに向かった。

 

「デートだからさ、水はシェアしようね」と息子。

 

なんじゃそりゃ?

まいっか。

 

チョコムースも快く分けてくれた。

 

食べ終わると、いつもはこっそりやっていることなのに、

私の前で好きなダンスを踊り出した。

自作の適当なダンス。

 

ビデオに撮ってたら、途中で息子が大笑いした時があって、

「ねえ、僕さっきなんで笑ったと思う?」

「え?わかんない」

「なんでって、おならしたんだよー♪」

 

・・・爆・・・

 

こういうたわいもない会話。

たわいもない時間。

 

でも見たことないくらい、すごくうれしそうな息子を見て、

私まですごくシンプルで幸せな気持ちになってくる。

 

その気持ちは <母である喜び> そんな言葉がぴったり。

 

 

ご飯作るとか、洋服をたたむとか、そういうことより、

 

「ただ母がそこにいて、じぶんという存在を見ていてくれる」

 

ということがものすごいこどものパワーになるんだな。

それを息子に教えてもらった気がした。

 

家だと「お母さん見て!」に、

はいはいと適当な視線を送ったりしがちだからね。

 

※ちなみに・・・

別の2人の日に私の買い物に息子をつき合わせたら、

「こんなのはデートじゃない」とものすごく不機嫌でした(+_+)

他に意識がいってるのが分かるんですね。

 

もちろん、こんなことしょっちゅうやってられない。 

でも、すごーくたまに、

ちょっと子どもが元気ないかな?

もしくは、ちょっと最近荒れているかな?

もしくは、ママ自身がこどもとうまくいってないかな?と感じるときに、 

 

この 伝家の宝刀 <2人きりデート>

 

いいと思います!!

 

母親が手ぶらで、他のことを考えず、

 じぶんだけを見ている、

 じぶんの話を聞いている、

 じぶんと一緒に楽しんでくれる、

 

そんな濃い時間だったら、

たとえ家の中だって、

15分だって、30分だっていいと思う。

 

いい時間にするためには、

母親自身が「やらなきゃならないこと」から解放されてのぞむこと。

 

こどものためと思いきや、

母親のあなた自身も癒されたり、満たされた気持ちを味わえると思います。 

 

今度は週末に男子をパパに預けて、

娘とのジョギングまたいこうっと。

フランス人上司から学んだこと2

めでたく席次も決まり(前回の話↓↓)

tomo-rainbow.hatenablog.com

 

大人4人でいろいろな話をした。

 

今日のメニューについて。

パリ暮らしについて。

フランス人の食の指向について。

彼女の仕事について。

バカンスについて。

 

私は、ディナーのお誘いを受けていながら、

それに応えられていなかったことをお詫びしつつつ、

日本の育児環境についても話した。

 

日本では、

核家族化、長時間労働に加えて、

ベビーシッターさんや、家事ヘルパーさんを雇う文化がないこと。

 

仕事の有無にかかわらず、

家事・育児全般を母親が担っているケースが多いが、

やむを得えない用事があって

一時的に人に預けること(身内など)があったとしても、

 

まさか夫とディナーなど <じぶんの楽しみ> のために

子どもを預けるということは、まあしないんです、と。

 

うん。思えば、 

「子どもがいるから行けないな」

「そこまでして行かなくてもいいか・・」

というのが思考のベース。

「パパのいる週末に美容院だけ行かせてもらうか・・」

が精一杯だったなあ。

 

 

すると、夫の上司のHさんは、

顔をぐぐっと前に近づけ、私の目を見てこう言った。

 

「ともこ、いいかい。

 人生は短い。君は今パリにいるんだ。

 今しなければならないのはパリを楽しむことさ」

 

 

「・・・・」

 

 

 

 

 

キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!

 

 

うっわーーーー

そ、そっかーーーー

うーーん、うん。

そうかもしれない!!

 

前では彼女もそうだそうだとうなずき、

いいこと言ったわmy love♪ とラブラブ光線を交わしている。

 

いやー。

 

母親は子どもを置いてまで息抜きしちゃいけない、

なんて誰かが言ったのだろうか。

 

夫?

母親?

子どもたち?

世間の目?

 

いやいや。

はっきりとは誰にも言われていない。

 

自分で自分に

「母親なんだから、そんなことするもんじゃない」と

言い聞かせてきたってことか。

そういうことをするのは、欲張りだし、罪なのだと。

 

単純に普段、育児を一人で背負いすぎて、

急に預けること自体が心配、ってこともあったりする。

 

 

Hさんの熱い言葉を聞いて、

私は力がみなぎって視界が開けていく感じがした。

 

「母親になっても堂々と楽しむ」

 

その権利をもらったかのような明るい気持ち。

とりあえずワクワクしてくる!

 

でもやっぱりザ日本人ママの私は、

授乳してる間はちょっとね・・とかつっこんでもみてる。

ん?でも昼ならいいかあ!

 

育児生活10年。

もっと自由に考えてもいいのかな。

そんなに自分を縛らなくていいのかな。

 

それには信頼できる人を見つけることが何より必要だ。

興奮さめやらぬまま、私たちはビストロを出た。

フランス人上司から学んだこと1

渡仏してすぐのころ、夫のフランス人の上司が

私たち夫婦をディナーに誘ってくれた。

 

フランスでレストランでのディナーに誘われたら、

それは <大人だけ> を意味している。

 

なんせディナー開始時刻は21時以降だし、

そこからメニューを熟読し、前菜、メイン、デザートと食べれば

そこそこ時間がかかる。

 

まさに <大人の時間> なのだ。

 

でもその頃といえば、、、、

 

1歳3か月の末っ子は授乳中。

4歳の長男は引っ越しの影響か、

必ず「おかーさーん」と真夜中に私のベッドに移動してきて、

一緒に寝るようになっていた。

 

パリで大人同士のディナー。

うむ、間違いなく素敵そう。

そりゃ行きたい!

 

けれど・・・息子たちの行動を考えると行ける気がしない、

行ったとしても楽しめる気がしない、

というのが正直なところ。

 

乳幼児を預けられるベビーシッターさんもなかなか見つからず、

せっかくのお誘いだったが、

「シッターさんが見つかり次第ぜひ」と濁していた。

 

それでも、夫はたびたび上司から

「彼女(私)はどうしているのか?」

「ベビーシッターが見つかったか?」

と幾度となく聞かれていたらしい。 

 

ついにしびれをきらした上司のHさんは、

もう子連れでよいから、と今度はビストロでのランチに誘ってくださった。

なんと当日は今お付き合いしている彼女を連れてくるという。

カップル文化である。

 

当日。

リュックを背負った快活で人懐っこい笑顔のHさんと、

知的な低い声と笑顔が魅力的な、明らかに大人な彼女。

 

おお、大人な2人だ♫

 

こういう出会いにわくわくした。

そして、ちょっと若作りの格好をした自分を後悔した。

 

パリに来て以来、歩いたことのないサンジェルマンデプレ界隈を

2人に案内されて歩く。

 

「ここが有名なカフェで政治家のたまり場だったの」 

「ここのアイスは有名だから子どもたちと食べましょう」 

「マルシェにチーズが出てるわね。試食してみたらいいわ」

 

至れり尽くせり。

 

石畳を3匹連れて歩く歩く。

子どもは大人に連れられて、だらだら歩くのが嫌いだが、

手に美味しいアイスがあれば不満はない。

 

街歩きを楽しんで、

壁中に小さな額縁がかけられた

なんとも味わい深いビストロに到着。

 

「実は昨日下見にきて、席も予約しておいたの」と彼女。

 

予約席はお店のコーナーにあたる部分で、

壁側半分がソファー席、手前半分が椅子席だった。

狭いけれどコージーな雰囲気に テンションも上がる。

これこれ!パリに来てこういうの待ってた!

 

ふと気づくと、

早くもわが子がソファー席に群がっている。

ここに決まってる~と言わんばかり。

いつも家族で外食時には、「ソファ席=こども」だったので、

彼らにとっては自然な行動だった。

 

子どもに続いて、

赤ちゃん連れの私がソファ席かな?と動こうとすると、

 

 

ん??おやおや??

 

 

 目の前には、戸惑いの表情を浮かべる彼女。

 

 

「なんていうのかしら・・

 席はどうするのがいいかってね」

 

 

なにやらHさんと相談している。

 

 

「ん??・・・・・・・ああ!」

 

 

彼らの言いたいことを察知した私は、

子どもたちに交渉、いや号令。

 

 

「君たち、ここに椅子を足すから端っこにいってくれる?」

 

 

「えーー!!ソファがいいのに!」

 

 

予想外にぶーぶー言いまくる子どもたち。

もうお絵かきセットも広げている。

一方で大人たちは座らずにこの動向を見守っている。

 

私は、静かに、ゆっくりと、

そして、これ以上ないほど目力を使って言った。

 

「今日は大人と大人でお話しするから

 真ん中を大人のためにあけてちょうだい。

 子どもコーナーはこの角につくるからね」 

 

母親というのは、有無を言わさぬ空気を醸すのが得意である。

 

 

 「ふああい」

 

 

そう。

もとはといえば、今日私たちを誘ってくれたのは、

私たち夫婦と話をしようと考えてくれたからなのだ。

 

子どもが座の中心で、

大人同士が散り散りに離れて座るなんて

ありえなかったのだろう。

 

子どもたちがテーブルの角に移動し、

私たちはペア同士、真向かいに座ることができた。

<大人の場所> の完成である。

 

子どもたちもあてがわれた

<こどもの場所> で遊びだした。

 

彼女も「これでいいわね!」と大いに納得した様子。

 

断わっておくが、

パリの人が子ども嫌いというわけではない。

子どもにもよく話しかけてくれる。

 

でも、ある場面では

フランスでは大人とこどもは空間を別にするのだ。

寝室しかり、食事しかり。

 

そして、大人同士が話しているときに、

子どもが割って入ることは歓迎されない。

 

フランスでの子どもの扱いは、

子ども大好きスペインとも、ちょっと違う。

 

何事も <子ども中心> で暮らしてきた私には、

子どものいる夫婦であっても、カップルでのディナーに誘われたこと、

また、この日のこの小さな「配席問題」は

<大人中心>のフランス文化を感じさせるのに十分な出来事だった。

 

電車で見た母娘の姿と、母になった私と娘

高校生だったころ、電車でこんな光景を見た。

 

長い座席に、母親と3歳くらいの幼い子が2組、座っている。

しばらくすると、片方の女の子が何が気に入らないのか、ぐずり始めた。

初めのうち、母親は気にも留めない様子で、

もう一人の母親と話していたが、

女の子のぐずりがなかなか止まずエスカレートしてきたので、

 

「そんなに泣いたらお母さん嫌いになっちゃうよ!」

 

と一喝した。

 

すると、どうだろう。

女の子の表情がみるみる変わり、

 

「お母さん嫌いにならないで!」

「お母さん本当に嫌いになったの?」

「お母さん笑って」

 

と、母親が彼女の方を向くまで、

「嫌いになってないよ!」という言葉をもらうまで、

必死の形相で懇願し続けたのだ。

 

このとき、学生だった私は、母親の顔を覗き込み、

苦し紛れな笑顔すら見せている幼子を見て、胸がつぶれる思いがした。

子どもにとって、愛されているという実感がいかに必要不可欠なものか、

そして、それにも関わらず、「愛」とはその性質上、

自分の意志で獲得することが容易ではない事柄なんだと痛烈に感じたのだった。

 

 

時は流れ、私も母になった。

第1子の娘が3歳になってすぐのころ、

やたらと「ママだいすき!」を連呼している時期があった。

最初は「うんありがと、ママもだよ」と答えていたが、

彼女は、何度答えても何度も同じことを言うのだ。

 

「ママだいすき!」

 

だんだんと確認をとるような感じに聞こえてくる。

 

「ママなんてだいっきらい!」

 

これは言葉はネガティブだが、

全幅の信頼を寄せている人に発することができる言葉だ。

子どもは嫌われないという自信があるから「だいっきらい」なんていうのである。

 

でも「だいすき」ばかり言うのは不安の表れだろうな・・・

だんだんと娘の「だいすき」が重たくなってくる。

娘は「だいすき」を何度も言わなければならないほど不安なのだろうか。

こんなに我慢強く、いい母していると思うのにな・・・

 

「ママ笑って」 

「ママってどういうとき笑う?」

 

こんなことも言うようになった。

え・・・毎朝の「おはよう」からめっちゃ笑っているつもりだった。

でも、娘にはわかっていたのだ。

私が心から笑えていないことを。

 

学生時代も、社会人時代も、

多くの仲間に囲まれていることが好きだった私の生活は、

結婚し、出産し、専業主婦になったことで激変した。

「よいお母さん」になりたい。

そう思って自分で選んだ道だったが、

夫は忙しく、その頃は流産も経験し、

娘と一対一の生活を一人で引き受けているうちに

心身とも疲れてしまっていた。

でも「よいお母さん」でいようと一生懸命笑っていたのだった。

 

娘の言葉に、

高校時代に電車で見た母子の姿を思い出す・・・

 

 

そんなある日、

かつて働いていた会社の同期たちで会うことになった。

同期の自宅に、わいわいと子連れで集まるのだ。

私は心躍りながら娘と久しぶりに電車で遠出した。

横に並んで景色を見ながら話すのは新鮮なものだった。

 

同期の家。

わーげんき?と黄色い声がとぶ。

厳しい研修をともに乗り越えた気心知れた仲間たち。

実に気楽。赤ちゃん~幼児までそれぞれの子どもが自由に過ごしている。

みんなで握った娘の大好きなおにぎりもある!

 

私は久しぶりにほっとした気持ちで、娘から目を離し、

仲間たちとのおしゃべりに花を咲かせた。

 

夫のこと、こどもの成長のこと、

そして、会社員時代の面白い話。

なんでみんなこんなに話がおかしいんだろう。

おかしくておかしくてテーブルにつっぷして涙が出るほど笑った。

 

あーーー楽しかった!!

 

そうやって、帰りの電車に乗り、座席に座ると、

娘が言った。

 

「ママ、今日ママ笑ってたね!」

 

「え?」

 

「ママ今日たのしかったね!!」

 

くまのぬいぐるみと一緒に私のとなりに座ってる娘。

とっても嬉しそうな顔をしているじゃないか。

娘は勝手に遊んでいたようで私のことをしっかり見ていた。

私がげらげら笑っているの見て、よかった!と心から喜んでくれていたのだ。

 

あついものがこみ上げて、目に涙がたまる・・・

 

「だいすき」を繰り返す娘を見てずっと苦しい気持ちだった。

でも今はただただいとおしかった。

 

母子は写し鏡。

きっと娘は日々私が苦しそうで、

そのことをつらい気持ちでいてくれたんじゃないだろうか。

「だいすき」「わらって!」

そうやって私を励ましてくれていたのだ。

  

そう。

こどもはいつだって、ママがだいすき。

ママがこどもの幸せをねがっているのとおなじかそれ以上に

「ママも幸せであること」を願っているのだ。

 

だから言いたい。

Love yourself,ママ!

 

いらいらしてしまうとき、もやもやとつらいときは

誰かとつながって、誰かと話して、誰かに子どもを見てもらって、

あなたが心からリラックスする時間をとること。

 

そして、欠点があろうが、家事が滞っていようが、

そのまんまの自分でだいじょうぶだと自信をもつこと。

こどもがあなたを責めているなどと考えないこと。

 

だって「こどもはいつだって、どんなあなただって、だいすき」だから。

 

無条件に愛してくれるこどもたち。

そのことをぎゅーっと抱きしめたら、

あなたとお子さんの心がほどけてくるのを感じるはずです。 

バルセロナは真っ青、ロンドンはコッペパン、パリはいつもグレー

バルセロナ → 常夏

ロンドン → 雨

パリ → 晴れたり曇ったり

 

それが欧州へ引っ越してくる前の、天気に関する勝手なイメージだった。

でも実際は・・・

 

バルセロナ →たいてい真っ青の空、たまーに雨季、冬は普通に寒い。

ロンドン→雨が降るには降るが、大粒ではなくすぐ止む。雨上がりの空が最高。

パリ→基本空はグレー。いつもグレー。そして結構雨も降る。晴れるとおお!と思う。

 

こんな感じ。

 

3月にバルセロナに向けて日本を発つとき、暖かいだろうと思い込み、

冬のコート類を船便に入れてしまい大失敗。

着たいと思っても、2か月間は届かない。 

 

娘の学校のお母さんに

「あなたは今日お店に行くべきね。上着を買いに」

とアドバイスされる始末。。

 

でもあのぴーかんの青空は、

もうそれだけで幸せ!!!っていうくらい本当に気持ちよく、

朝からやる気がみなぎったものだ。

行動を後押ししてくれる天気。

前向きでゆったりした気持ちでいることを後押ししてくれる天気。

天気によって、この国の人たちの性格ができているよなあってつくづく感じた。

洗濯物もあっという間に乾く。

 

ところ変わって、ロンドン。

6月に渡英したところ、口々に「いい季節に来たね」と言われた。

住むことにした家の裏庭は、長らく手入れされていないにも関わらず、

それはそれは立派な赤いバラがポコポコ咲いていた。

ご近所の庭々も、色とりどり。歩くだけで楽しい。

 

イングリッシュガーデンを誇るイギリスだけあって、

雨も植物がよく育つ降り方をしていると思う。

雨は頻度が高いかもしれないが、降水量でいうと東京の比ではない。

霧雨~小雨程度のものがしばらく降ってさっと止む。

この雨と雨の小休止のあいだに、庭の植物もにょきにょき伸びる。

本当にぎょっとおそろしく感じるほどに成長するのだ・・・

 

雨上がりには、クリアな空に虹がかかることがよくあった。

濡れた芝生や葉のにおいを嗅ぎながら、ベビーカーを押し、

レトロな住宅街をのんびり歩くのは悪くない散歩であった。

雨雨というけれど「雨上がりの美しさ」というおまけがある国。

 

あと、ロンドンの空は雲が面白い。

コッペパンのような形の雲が、空の低いところにたくさん浮んでいる。

それは脳内イメージの中の、ザ西洋画の空なのだ。

子どもたちが車窓から「絵みたいなくも~」とよく言っていた。

ロンドンの空は見飽きないのである。

 

もう一つ、イギリスに滞在したら注目は、朝の天気予報。

一日の中にすべての天気が入っているといわれているイギリス。

バルセロナの天気予報は、おおむね晴れマークでさっと終わるのだが(笑)

イギリスの天気予報は違う。

もう芝居仕立て。

どこからどう風が吹いて、いつ風向きが変わるのか、

どの時間帯から日が差してくるのか。

雨はどんな種類の雨なのか(雨の英語表現がたくさんある)。

キャスターが膝の上下運動や、両手の大きな動きによって、

全身でイギリスの一日の天気を教えてくれるのである。

 

そして、今日は一日中晴れます!という珍しい日には、

外からの中継も、お祭り騒ぎ。

「見てください!この空を!完全にすばらしい!

 今日は完ぺきな一日になりますよ!!」

と叫びまくるのである。喜びがあふれている。

 

パリ。

パリはいっつもグレーだ。それがパリの基本形。

ここのところ欧州一ひどいと言われている大気汚染のせいでもあるのか、

よく分からない。

空気が流れにくい土地のようで、もやもやーーっとしている。

住んでいるあたりには豊かな緑もないので、

目に入るのは、家々とグレーの空である。

 

どんよりとした空というのは実にテンションが下がるが、

パリのすごさは、このいけてないグレーの空と石造りの建物だけでもなお、

はっとする美しさを感じさせるところだ。

(路上の汚さはおいておいて・・・)

 

日本に住んでいたころ、お天気の悪い日に街中を歩いていて、

おお美しい!と感動するという経験はしたことがなかった。

 

パリの街並みを天気が悪くても美しいと感じるのは、

まさにそれこそ「芸術の力」なのだろう。

 

欝々とした空の下にたたずむ物憂げな彫刻、 

橋げたを支える女神、

連なるアパルトマンに陰影を与える繊細なアイアンの門やバルコニー。

美しいシルエットの堂々たる街燈。

 

お天気がなにか?

そんな感じ。

 

芸術が美術館に入っているのはなく、

街に息づいている。

 

どんよりした空すら、その芸術をより浮き立たせる

「効果的な背景」のようにすら思えてしまうのだからすごい。

 

パリの人が黒ばっかり着るのは、

この街の景観を邪魔しないためなのか?(とすら勘ぐる)

 

 

ただ、こういった天気の問題点は、

陽射しが少ないことによるビタミンD欠乏。

私を含め、お友達もよくお医者さんに指摘されている。

ビタミンは関係ないのかもしれないが、

ロンドンにしてもパリにしても暗い時間が長い秋冬は

とくに気分も滅入る・・・

 

そういえば、バルセロナの海には、

ドイツやイギリス、ロシアから来たであろう人たちが寝そべって焼いていたが、

あれは健康上必要なのだろう。

心と体が猛烈に陽射しを欲しているのだと思う。

 

陽射しの少ない街に来て共通の風物詩は、

太陽がばーっと出ると、

「今だ!」とばかりに誰もが芝生に寝転んで焼く光景である。

 お年寄りは公園のベンチに腰掛け、

若者はできるだけ肌を出して芝生に寝転んでいる。

 

日本人にとっての温泉と一緒だ!と私は思っている。

実際にしばらく太陽を浴びると、体内がほっと充電された感覚があるのだ。

そう、こちらの人たちはお湯ではなく、太陽に癒されているのである。